SAORIYAMAMURAオフィシャルブログ

ファッション、子育て、メイク、恋愛など、女に生まれたからこその楽しみや喜びを書いています。

「多様性を認める」というのは、自分の偏った思考に気付くことと、自分の意思を明確にすること。

 

書きたいことがどんどん出てくる年の瀬。笑

 

こちらの記事の続編。

学校教育は「思考力低下」と「不感症」を生む。 - SAORIYAMAMURAオフィシャルブログ

 

さすがに、文科省も反省したのか、

 

答えは1つではないことを教えているエピソードがあるんだけれど、

 

あれ、これ書いたっけ?

 

オンラインサロンで話したのかな?

 

忘れちゃったから書きます!笑

 

どこかの学校の入試問題に、

 

「1+1は?

 

その答えになった理由は?」

 

という問題が出たんだって。

 

答えは、全て正解。

 

私、ずーっと1+1は1だって言ってきたけど、

この話を聞いて、

 

あ、3も5も10も2もあるわ!!

 

とゆうか、1+1=無限だわ!ってことに気付いたんだけど、

 

実際に、無限と書いた生徒もいるらしく、

 

この問題の目的が、

 

何を書いても正解であり、

 

どうしてそうなったのか人それぞれの考えを聞くこと、

 

正解は1つではないという

 

多様性を認めることが根本にあるとするならば、

 

人の意見を聞いて、関心して終了したり、流されて終了している場合ではない。

 

ここまでの意図を生徒に説明しないと、無意味。

 

人の考えを聞いて、

 

これしかない!!と決め込んでいた自分の思考の偏りを強制する為なら物凄く意味を成す。

 

視野も視点も変わるし、広がるから。

 

「こういう思考もあるんだ!

 

その思考で考えてみよう、自分の思考は偏っていたな。

 

他にも偏りがないのかな?」

 

と、考え、俯瞰するなら意味がある。

 

しかし、1+1にだけにフォーカスして、そこの答えを変えるだけじゃ弱い。

 

ちなみに、私が1+1=1だと考えていた思考は、

 

例えば、リンゴを半分に切ったら2つになるけれど、切ってない状態に戻せば1。

 

2つのコップの水を1つのコップに入れたら1。

 

靴は左右揃って履けるから、左一足、右一足を足すと1。

 

人とスタイリストがいてこそ、1人の人のヘアスタイルが出来上がるから、1人+1人で1。

 

だったんだけど、これは、1にする思考。

 

1しかない、1を導き出す腐った教育思考。

 

男性1人女性1人で、子どもが生まれる。

 

双子なら2、3つ子なら3、全員で5人なら5。

 

男の場合、家庭外でも子どもを作っていたら何人にもなるし、

 

祖父と祖母の1+1から始まった命を考えると、20人以上。

 

これ、先祖代々遡ると凄い人数。

 

それぞれの家庭で人数は変わるから、無限。

 

答え、無しとも、現在変動中とも言える。

 

どんどん増えていくものだからね、命を繋ぐことは。

 

しかし、もし、0と答えた人がいるならば、その理論を聞きたい、私は。

 

0理論をどう適用したのか知りたい。

 

なぜ、0限定なのかを知りたい。

 

知って、その考え方があったか!!と、思うなら即それを他のことにも転用する。

 

なんだけど、

 

流されるのは、違う。

 

うじうじして、

 

「私は1だと思ったけど、みんなが無限っていうなら無限だわ」

 

と、なると、

 

自分が1だと答えた思考を直視せず、無限だと答えた思考を直視せず、ただ大多数に流されるだけだから、

 

思考は変わらない。

 

1ミリも変わらない。

 

このパターンする人、めちゃくちゃ多い。

 

その人の思考を理解してもないのに、理解しようとしてもないのに、知ったかしてわかったふり。

 

賛同したふり。

 

結果、変化なし!

 

いや、別に変わらなくてもいいんですよ。

 

変わらないとならねばいけないなんてルールはないので。

 

ただ、自分が変わると自分に約束した場合、約束を破るのは自分に失礼だと私は思うだけ!

 

自分との約束は、自分にしか守れない神聖なる美しいものだから。

 

人の思考を知り、それをインストールするならば、

 

自分の意思をしっかりと言うべきだし、主張をするべき。

 

これが、私の思う多様性を認めるということ。

 

「みんな違って、みんないい」って言葉に流されて、綺麗事のように、

 

まるで自らが心が海のように広い聖人君子かのように言い、それを実行しようとする人もいるけど、

 

この場合、自分の意見、主張、感じたことは置き去りになるし、置き去りにすると言うこと。

 

自分の意思を明確に持ち、必要な時に主張出来る人が、「色んな考え方があるね、いいね」というのとは違う。

 

自分の意思を明確に持ち、主張出来る人は、まず考えているし、採用する思考しない思考を明確に選べる判断基準を持っている。

 

 

男性は、物凄く優しいから、

 

意味不明だわ!と思った行動でも、理解しようとするし、それが出来るけど、女性はいつもいつも出来るわけではない。

 

感覚がNOと言えば、そっちを信じるし、

そもそも生理的に受け付けないものがあるし、

 

誰も幸せにならないこと、平和にならないことは受け入れない愛を持っている。

 

男性は、幸せにする為に理解をしようとする。

 

女性は、幸せを感じる自分である為に、

 

平和である為に受け入れないことを選ぶ。

 

どちらも向かうところは同じ、手段が違うだけ。

 

だって、私は、

 

「気にいらないことがあったら、ふてます!

 

テストのように答えを1つ出すから、◯してください!

 

そうじゃないと、ふてます!

 

認めてくれてないから、ふてます!」

 

みたいなことをガタイと態度でPRされても、

 

「その思考もあるんだね、みんな違ってみんないい」なんて、思えないですよ!!

 

話にならない、それは親に言って、以上!

 

です。

 

ふてるエネルギー、ふてる意識って、真面目に平和を壊しますからね。

 

純度が低い。

 

子どもの拗ねるのは、超純度が高いから、可愛いし爆笑するからいいんだけど、

 

いや、これも理不尽なら私は怒りますけど、

 

まず、理不尽なことを言ってこない。

 

ふてることを、承認欲求の手段に使う人に気を遣っているのは全くの愛ではないですからね。

 

なんなら、悪意だわ。

 

ふてる人は、放置するのが愛です。

 

なぜふてるのかを理解しようとする時間が無駄。

 

本人が理解する気がないんだから、こちらが理解したところで、解決にはならないし、

 

表面的な解決をしたって、ロングスパンでは何も変わらないし、ここでいう表面的な解決とは、ふててる行為とその思考を受け入れるってことだからね。

 

私は、その思考は違うと考える。

 

ということが言えない人だらけのJAPAN、

 

受け身軍隊授業をいつまで引きずってんねん、古臭いなー!!!

 

学校は学校なりに、文科省文科省なりに考えているということを汲み取った上で、

 

言わせてもらうと、古い、ぬるい!

 

私、わかったんだけど、

 

モンスターペアレントって、自分が軍隊時代に言えなかった不満を現実の欲求不満と重ねて、ぶちまけてるだけです。

 

理不尽なことを言うのが、モンスターペアレントの定義としたら。

 

それは、主張ではなく八つ当たり。

 

そもそも、理不尽なことを述べる時点で多様性を認めるとは対極にあるし、

 

多様性がある考えをしていないので。

 

相手がいちいち意図を読み取る必要がないように、

 

意思を表明し、主張する伝え方が私は優しさであり、本当の思いやりだと答える。

 

自分の意思を明確にしていない人の発言は、

宇宙の矛盾ではない、矛盾が溢れているから、

 

「何が言いたいのか、わからない。」と、自分自身が、自分自身のことをわかっていないことに気付くきっかけを与えるのが聞く側の本当の思いやりだと答える。

 

心の中で、意味不明。と思いながら聞いてるとか、相当失礼。

 

考えもせず、わからないをリピートするのも相当失礼。

 

だから、そもそも、

 

「多様性を認める」って言葉の1人歩きが問題なんだわ。

 

聖人君子ぶりたい人って、みんな違ってみんないいに走るから。

 

みんな違ってみんないいの前に、自分自身を認めたら?と思っていたけど、今はそれすら、どうでもいい。

 

 

これぞ、まさに、

 

みんな違って、みんないい

 

ですよ。

 

今すぐに幸せになれて、今すぐに子育てが楽になれて、今すぐに自由になれる手段があると知り、採用して工夫を重ねている私の感じる幸せと、

 

子育てで身を粉にし、欲求不満を子どもで満たし、

自分を信頼出来ない弱さを子どもに重ねて幸せを感じる人もいるんだし、

 

自分の意思を手放してまで、みんな違ってみんないいと全人類を認めようとしている私。というものに幸せを感じる人もいるんだから、

 

いいんじゃないですか。

 

私は、子どもで欲求不満を満たすとか正当化の道具にするとか絶対に嫌だけど。

 

何に幸せを感じるかは、人それぞれ。

 

だけど、今の幸せが最高の幸せとは限らない。

 

知らないだけで、もっともっと幸せだと感じる世界があるかもしれない。

 

だから、私は今に甘んじないだけ。

 

甘んじた絶望は、いまだしつこく感じています。

 

死んでも取りこぼしませんからね!笑

 

大きく話が逸れたけど、

 

人の思考を聞くのは、自分の思考を直視し、自分の思考の不要なものを排除し、

 

新しい思考を取り入れる為でしょ?

 

だから、人は憧れの人の話を聞きたいわけでしょ?

 

憧れは、私の原動力です。

 

素直に鵜呑みに出来るのは、思考を手放し、

 

全く別の思考になろうが、私は私だと知っているから。

 

幸せだろうと不幸だろうと私は私。

 

経験しないとわからないですよ。

 

不幸な時も、幸せな今も、私の人生であり、

それを感じているのは私だもん。

 

ただ、不幸な時の望みと、幸せな今の望みは、

 

全く違うってだけ。

 

 

どちらにしても、より幸せに、より平和に、より豊かに、より美しくというところに向かっているんです。

 

無意識でも顕在意識でも。

 

それが昔からだと、わかったんです。

 

一見、全く向かっていないような現実も、そこに向かう為に起きているだけ。

 

これがわかっていれば、まずは感謝するし、

 

いくらでも修正出来ます。

 

 

みんな向かってる場所はあるんだけど、

 

現実に流されて見失ってるだけ。

 

テストで正解する為に勉強する思考と同じです。

 

目の前のことしか見ていない。

 

テストの点数より、その時に何を感じたのか??

 

の、方が大事ですけどね。

 

点数が悪けりゃ凹み、よけりゃ安心するのは、

 

テストの点数、成績で自分の価値が決まると思っているから。

 

そんなとこに価値はない。

 

命という与えられた時間の中で、どれだけ経験し、どれだけ感じ、どれだけ行動し、どれだけ自分を新しい世界に連れて行ってあげるか?ということに私は価値を見出しています。

 

だから、私の価値とかどうでもいいし、

 

人の価値とかどうでもいいです。

 

スポーツが出来たら楽しいから、出来るに越したことはないけど、運動オンチだからって価値がないなんてないし、運動が出来るからって価値があるわけでもない。

 

運動が出来ることが自分の価値だとすると、ずっと運動が出来ないとダメってことになるから苦しいですね。

 

年齢を重ねる度に、身体能力は落ちますからね。

 

成績が自分の価値な人は、成績がない場所で生きるのは苦しいですね。

 

ずっと学生してないとダメだし、そうはいかないから社会に出て、無価値を感じて、ずっと学び続けるんだから。

 

生きるってもっとシンプルなんだけどな。

 

みんなで食べるご飯は、美味しいね!

 

マインドシェアしあえる仲間との会話は楽しいね!

 

お気に入りのお洋服が見つかって嬉しい!

 

お肌の調子が良くて嬉しい!

 

この人が好き!

 

憧れる!

 

ここに、自分の価値など関係ないし、必要もないけどな。

 

自分で自分を生き辛くするのって、本当に無駄な行為。

 

生き辛さって、自分に嘘をついてる時に感じますからね。

 

私は、本当に今が生きやすくって嬉しいけど、

 

もっともっと生きやすい世界で生きると決めています。

 

まとめとして、

 

多様性を認めるとは、他人ではなく、

 

自分の思考の全てを自覚し、変えていくということ。

 

JAPANって、いつも、その先までを考えないから不思議だわ。

 

認める。だけだと、で、次は?ってなる人だらけなのに。

 

認める必要性より、認める目的を提示すれば、聖人君子ぶる人も減るのに。

 

聖人君子ぶるって、不感症になる、もしくはそもそも不感症だということです。

 

行動の軸が、他人だもん。

 

f:id:SAORIYAMAMURA:20181230122234j:image

ハワイ〜💗